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最終更新日:2014/ 5/20(火) 22:32:30

米田實〔1878―1948〕年譜(詳細版) Version 1.0.4

凡例 本表 註記 関連リンク

凡例

本表について
  1. 本表は米田實〔まいだ・みのる/1878―1948〕の経歴・事績を、年月順に排列したものです。
  2. 私はすでに、同様の年譜を冊子体として2008年に発表してゐます(資料「米田實年譜・著作目録」)。しかし本表には、紙幅の都合により冊子体では省略した、細かな事実についても記載してゐます。逆に冊子体に記載したにも拘らず、オンライン版で省略したものもありますので、より完全な年譜を希望される場合は、冊子体の方も併せてご参看ください。
  3. なほ米田に関して、本表に記載されてゐない事実につき、なにかご存知(お気づき)の方は、ぜひともご一報ください
各項目について
  1. 漢字は原則として新字体に改めました。
  2. 年月日について、史料間に異同のある場合は、より確からしいものを採りました。
  3. 年齢は数え年で表記しました。満年齢は誕生日(12月11日)以前であれば2歳、以後は1歳を減じることで求められます。
  4. 「東朝」は東京朝日新聞(社)、「大朝」は大阪朝日新聞(社)の略称です。また桑港とは「サンフランシスコ」のことです。
  5. 特記事項のある場合は、備考欄に註番号を打ちました。註記は本ページ末尾の註記欄にまとめてあります。
過去の履歴と今後の修正
  1. 今後、新たな史料や情報に基き、記載内容を追加修正するときは、当該の箇所をこのやうに表記し、さらに備考欄に◆マークと修正内容、修正日を記載します(例:◆肩書を「顧問」から「編輯局顧問」に変更:09/9/15)。追加および修正箇所を確認するときは◆マークを探して下さい。
  2. また1箇所修正するごとに、本表のバージョンの最終桁の数字を1つづつ増やし(例:1.0.9→1.0.10)、合せて「更新情報―研究関係」にて告知します。
その他
  1. 各項目の典拠については煩雑になるため省略しました。この点につきお知りになりたい場合はご一報ください。なほ、米田實の経歴については、予め論文「国際問題評論家の先駆・米田實:その経歴・人物・言説」にてご確認いただければ幸です。
  2. 本表について何かお気づきの点がありましたらご一報ください

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米田實年譜

年月日年齢事績備考
1878(明治11)年12月11日1歳福岡県久留米にて士族米田廣太の長男として誕生(本籍地は福岡県久留米市原古賀町37番地)註1
1883(明治16)年頃6歳このころ、祖父から漢文素読の手ほどきを受ける
1893(明治26)年16歳中学明善校を中退、3円を懐に上京。代議士松村雄之進から3円を貰ひ、神田を根拠地として新聞配達、下宿の水汲みなどして苦学
1893(明治26)年頃16歳国民英学会に通ふ
1894(明治27)年17歳『国民新聞』にて執筆活動
1895(明治28)年18歳『国民新聞』の月曜文学附録に書いた「実宝(十方?)徳を論ず」により、人見一太郎(民友社)を介して勝海舟の知遇を得る
1896(明治29)年11月19歳勝海舟の世話で横浜より渡米。その際に勝より壮行の詩を贈られる
1897(明治30)年頃20歳ローウエル・ハイスクールに在学
1897(明治30)年4月3日20歳日刊『ジャパンヘラルド』が創刊、米田はこれに「短報記者」として協力する
1897(明治30)年4月30日20歳『ジャパンヘラルド』が廃され『桑港日本新聞』創刊、これに関係
1898(明治31)年5月21歳現地誌『顎はず誌』が筆禍を機に廃刊。『桑港日本新聞』もこれを転載してゐたことから、同新聞の編輯長米田も厄を蒙る(9ヵ月の軽禁錮のところ、50ドルの罰金で釈放)
1898(明治31)年5月26日21歳父廣太死去により、米田家の家督相続を届出
1899(明治32)年4月3日22歳『桑港日本新聞』と『北米日報』(1898/11/3創刊)が合併し『日米』が創刊される。米田は当初より経営陣に参加
1900(明治33)年頃23歳ゲリー街725番地の福音会に止宿
1900(明治33)年10月23歳民友社より初の著書『バイロン』を刊行
1901(明治34)年6月24歳オレゴン大学を2番で卒業、バチェラー・オブ・ロースを得る。在学中は松岡洋右と「皿洗ひ仲間」であつた(松岡が1年上)。◆修正:14/5/20→註4
1901(明治34)年9月?24歳アイオワ大学に入学、自炊をしつつ日米新聞その他に原稿を書いて学費を稼ぐ◆修正:14/5/20→註4
1903(明治36)年6月26歳アイオワ大学大学院卒業、マスター・オブ・アーツを受ける◆修正:14/5/20→註4
1904(明治37)年9月27歳カリフォルニア大学大学院に籍をおく(1906年迄)。半日は大学で過し、半日を新聞社で過すといふのが日課となる
1905(明治38)年28歳この当時、『日米』編輯長(しかし社会部長の清瀬規矩雄が、実質的な編輯長であつた)
1906(明治39)年4月18日29歳サンフランシスコ大地震。火災は昼夜3日に及び、日米新聞社の社屋も焼失。米田の自宅も焼けたらしく、研究ノートなどをすべて喪ふ
1906(明治39)年4月以降29歳カリフォルニア大学大学院を退学、日米新聞社の復興に専念
1907(明治40)年5月1日30歳オークランドで開かれた桑湾青年団体野外親睦会に、福音会を代表して出席
1907(明治40)年夏30歳帰国
1907(明治40)年7月12日30歳家督相続が受理される
1908(明治41)年1月31歳雑誌『太陽』に掲載された「日米問題」が池辺の目に止る
1908(明治41)年5月31歳池辺三山の勧めで東京朝日新聞に入社、外報係の傍ら論説を執筆
1909(明治42)年3月30日32歳森島修太郎の長女わか(和歌)と結婚
1909(明治42)年7月14日32歳高橋作衛・寺尾亨の推薦により国際法学会に入会
1910(明治43)年1月1日33歳小石川小日向台町35に居住
1910(明治43)年4月33歳東京朝日にて「外報専務」を務める
1911(明治44)年1月1日34歳長男欣一誕生
1911(明治44)年9月30日34歳池辺三山退社
1911(明治44)年11月13日34歳「東京朝日新聞編輯局局制」が制定/実施され、初代外報部長となる
1911(明治44)年11月30日34歳弓削田精一が大阪朝日に移籍、東朝評議員を解任となったため、その後任として米田が指名される
1912(明治45)年1月1日35歳京橋南鍋町1-7に居住
1913(大正2)年?36歳長女茂(子)誕生
1914(大正3)年6月20日37歳二女安子誕生
1915(大正4)年2月2日38歳長女茂子、病気により死亡
1915(大正4)年3月23日38歳杉村楚人冠、米国廻りで予定通りロンドンより帰国。外報部長の米田が代って現職のままロンドンへ派遣
1915(大正4)年4月24日38歳天洋丸にて横浜を出発
1915(大正4)年5月3日38歳ホノルル著
1915(大正4)年5月10日?38歳サンフランシスコ着、日支関係と日本の立場について、桑港各紙(英字紙)の取材を受ける(翌11日会見記が各紙に掲載される)
1915(大正4)年5月?日38歳ワシントンでランシング国務長官と会見
1915(大正4)年5月29日38歳ニューヨーク号にてニューヨークを出発
1915(大正4)年6月6日38歳朝、リバプール著、ロンドンに入る。タイムス社内に机を持つ
1915(大正4)年7月17日38歳三女壽子誕生
1915(大正4)年11月16日38歳チャーチルと会見(会見記は同年12月19日の東朝掲載)
1916(大正5)年6月1日39歳フランス訪問、英軍の最前線を視察
1916(大正5)年11月末39歳厳しい検閲などにより神経衰弱となり、大使館の斡旋により鹿島丸で帰国
1916(大正5)年12月39歳小石川大塚窪町6に居住
1917(大正6)年4月3日40歳淡路丸偽電事件で幹部としての責任上、他の幹部と共に辞表を提出
1917(大正6)年4月12日40歳淡路丸偽電事件に関して譴責処分
1917(大正6)年11月21日40歳四女悦子誕生
1917(大正6)年7月40歳府下高田村字雑司ヶ谷310に居住
1919(大正8)年7月31日42歳朝日新聞が合資会社から株式会社となったさい、26人の株主の1人となる
1920(大正9)年43歳この頃、国際聯盟協会に入会、評議員となる
1920(大正9)年3月1日頃43歳大朝に出頭した際、副社長に外報部長などの実務職を退き、執筆専門となることを申し出るが、慰留される
1920(大正9)年4月15日43歳新大学令により明治大学の設立が認可され、学部教授(法学部政治学科)の1人に任ぜられる
1920(大正9)年7月頃?43歳村山龍平宛書簡にて、3月の話を蒸返す。この頃、月に3、4回神経衰弱の持病にて、仕事が出来ない状態にあつた
1921(大正10)年10月44歳ワシントン会議へ特派の予定が急病(神経衰弱)により中止
1922(大正11)年3月30日45歳文部大臣より法学博士を授与される
1922(大正11)年4月4日45歳東朝にて論説委員長(安藤、杉村と共に論説委員に任ぜられ、互選により委員長となる)
1922(大正11)年7月1日45歳国際法学会にて雑誌委員
1923(大正12)年1月1日46歳外報部長を退き、相談役(論説委員及び同委員長如故)
1923(大正12)年4月1日46歳東京商科大学の講師となり、外交史を担当(前任は林毅陸)
1923(大正12)年4月8日46歳東朝にて編輯局長代理(安藤編輯局長欧米視察のため)
1923(大正12)年4月14日46歳部長会議にて編輯局長代理の辞職を申し出、受理される
1923(大正12)年9月1日46歳関東大震災。編輯室に最後まで止まり、また手持の百数十円を供出する
1923(大正12)年10月15日46歳正式に編輯局長代理を解かれる
1924(大正13)年4月15日47歳外報部長に再任(相談役と兼務)
1924(大正13)年4月頃47歳東京市外雑司ヶ谷字御嶽311に居住
1924(大正13)年6月9日47歳『明治大学駿台新報』に「政治経済学部設立趣意書」が掲載され、委員として名を連ねる。同学部設立に尽力したらしい
1924(大正13)年12月1日47歳外報部長・相談役を解かれ編輯局顧問
1925(大正14)年1月48歳東朝で組織改編、論説班が論説委員へ昇格
1925(大正14)年7月29日48歳明治大学で、法・商両学部より政治経済学部が分離する。これに伴ひ政治経済学部に移籍
1926(大正15)年6月7日49歳国際法学会にて評議員兼編纂委員に選ばれる
1927(昭和2)年5月50歳中国の法律制度研究会の招きで訪中、満蒙地方も訪れる
1931(昭和6)年9月24日54歳満洲事変に対する東朝社説「事変の正解を望む」執筆註2
1931(昭和6)年9月25日54歳陸軍省調査班の訪問を受け、満洲事変に対して意見を述べる
1932(昭和7)年4月25日55歳明治大学に創設された新聞高等研究科の講師に任命される(近世欧米外交事情を担当)
1933(昭和8)年1月5日56歳25年勤続表彰(大朝社にて)。美土路と共に答辞を述べる。そのあと大朝新年会に出席し追懐談を披露
1933(昭和8)年12月30日56歳朝日を停年退社、「東京朝日新聞社顧問」となる(退社時の肩書は論説委員・編輯局顧問)
1934(昭和9)年57歳明治大学監事
1934(昭和9)年3月1日57歳豊島区雑司ヶ谷6丁目915に居住
1934(昭和9)年12月22日57歳東亜同文会理事
1935(昭和10)年9月18日58歳二女安子、樋口易正へ嫁す(帝国ホテルにて挙式)
1936(昭和11)年夏59歳満鉄主催夏期大学の招きで満洲国を訪問◆追記:09/8/22
1938(昭和13)年61歳明治大学終身商議員となる
1938(昭和13)年4月22日61歳三女壽子、越村信三郎へ嫁す
1940(昭和15)年8月30日63歳長男の欣一が肺結核により病死。欣一は東大卒、東朝に1936年入社、静岡支局などに勤務。1939年依願退職
1941(昭和16)年3月31日64歳東京商科大学の外交史講師を依願解嘱。後任は神川彦松
1941(昭和16)年9月頃64歳東京市豊島区池袋町3-1401に居住
1943(昭和18)年6月3日66歳薄井直樹、米田家養子となり、四女悦子と結婚
1944(昭和19)年3月18日67歳孫の修誕生
1945(昭和20)年6月頃68歳信州に疎開、腎臓を患ふ
1946(昭和21)年69歳朝日新聞社社友
1946(昭和21)年2月24日69歳孫の昭子が誕生
1946(昭和21)年11月頃69歳疎開先から帰京?
1946(昭和21)年12月69歳『国際法外交雑誌』45(11/12合併号)の評議員欄(研究部)にその名が見える[次号46(1)には名前なし]
1947(昭和22)年10月10日70歳明治大学で最後の講義。この月より急性腎臓炎で自宅療養となる
1948(昭和23)年1月9日71歳午後7時15分、急性腎臓炎のため北多摩郡久留米村田無の別邸にて逝去註3
1948(昭和23)年1月13日71歳豊島区池袋3丁目の本邸にて13時から神式により葬儀

註記

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