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最終更新日:2011/ 3/17(木) 20:59:10

論文「日本における外交史学の起源」

目次

  1. 書誌情報
  2. 概要
  3. 正誤表・補足情報
  4. 入手・閲覧方法
  5. 索引データ
  6. 全文データ
  7. 参考文献リスト
  8. 関連リンク

書誌情報

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概要

1.論文の要旨

本論は著書『近代日本の外交論壇と外交史学』を刊行するさい、書き下しとして執筆したものです。19世紀にヨーロッパで学問として確立された「外交史」が、どのやうなかたちで日本に移入され成立したかを、教育と研究の両面から考察しました。

紙幅と私の能力の関係から、第1次世界大戦勃発以降の「外交史に関する各種書籍の刊行状況」について言及することはできませんでしたが、タイトルにある通り、日本における外交史学の起源については、概ね明かにすることができたと考へてをります。

以下、本論の要旨にかへて、「をはりに」の部分をそのまま転載いたします(註記は省略)。次項の「目次」と合せて、本論の概要を推察していただければ幸です。

これまで見てきたやうに、日本で最初に外交史の講義を行つたのは、一八八八(明治二一)年度の東京専門学校で、担当者は高田早苗であつた。しかし高田と、一八九五(明治二八)年度に「近世外交史」を教授した中村進午は、それぞれ一年かぎりの担当である。翌年から同校で継続的に講義を行ひ、実質的に日本における外交史教育の基礎を据ゑたのは、『外交時報』の創刊者でもある有賀長雄であつた。

続いて明治三〇年代に、慶應義塾や学習院、東京高商、東京帝大などが外交史を開設し、明治四〇年代以降になると、他の大学にも広まつて行く。この点において通説を確立した川田・二宮論文は、第二次世界大戦以前に外交史を教授した大学は「数校にすぎなかった」とするが、その後に明かになつた新史料により、当時、法、政治、経済、商学系統の学部学科を置く大学の大半で、外交史が開かれてゐたことが確認できた。

つぎに開設の順序をみると、帝国大学よりも、むしろ他の学校の方が先行して設置したことが判る。東京では東京帝大よりも早稲田や慶應義塾の方が早く、関西でも京都帝大より同志社の方が先であつた。理由としては第一に、帝国大学が講座制を採つてゐたことが挙げられる。講座の設置は勅令によらねばならず、予算や担当者の手配も必要であつたが、学科目制をとる他の学校は、比較的簡単に新しい科目を開くことができた。第二に外交史といふ学問自体の歴史が浅く、国内でも専攻者の少かつたことが、帝大における講座の設置を妨げた。

具体的に見ると東京帝大は、外交史講座の設置を方針として定めてから、当時大学院生であつた立作太郎を留学させ、この学問を新たに学ばせてゐる。これに対し学習院や慶應義塾は、早稲田で外交史を担当する有賀を招くことで、早い時期に講義を始めることに成功してゐた。京都帝大についてみると、同校で政治史を担当する末広重雄は、もともと東京帝大の大学院で近世外交史を専攻してをり、ヨーロッパへの留学も経験してゐた。しかし同校に外交史の講座が置かれたのは大正後期のことである。これに対して同志社は、その末広を講師に招聘し、大正初期には外交史の教授を始めてゐる。

本論で次に明かになつたことは、右にも少し触れたが、この時期の外交史研究者の少なさである。今日に較べて、大学の数そのものが少いにも拘らず、同じ人物が、複数の学校で講義を担当してゐるのが目につく。たとへば米田実は、明治大学のほか、東京商大、法政大学、日本大学で講義を行つてゐる。関西では末広重雄が京都帝大、同志社、関西学院で教鞭を執つてゐる。これは今日、外交史や国際政治史、国際関係史の専攻者の多さを知るものには、いささか意外に感じられる。

三番目に解明されたことは、この当時、大学で講義される外交史は一般的に「西洋外交史」を意味してをり、日本外交史や東洋外交史は補完的な存在だつたといふことである。これは「分析の対象たる一九世紀から二〇世紀の世界そのものが、欧米の諸列強を中心に動いてをり、非欧米諸国(地域)はその客体に過ぎない」といふ当時の認識を反映した結果と思はれる。

続いて、外交史に関する書籍の刊行状況の方に目を転じると、まづ、発行点数そのものが非常に少いことに気がつく。しかも、他の分野の研究者や、研究者以外の著作が多く、外交史の専攻者による書籍は数へるほどしかない。これは、学問そのものが創成期にあり、外交史の専攻者の数そのものが少かつたことに起因すると考へられる。

つぎに、これらの書籍が、どれくらゐ社会に流通したかを検討する。当時の出版状況を今から推測することは困難だが、本論を執筆する過程で、本論で取り上げた書籍を収蔵する図書館が、それほど多くないことが判つた。所有する図書館の数が、両手で足りるやうな著作も珍しくない。そこから類推すれば、これらの書籍が、広く社会で読まれることはなかつたと思はれる。有賀の『近時外交史』が、少くとも一〇版を重ねたのは事実だが、全体の発行部数としては、さほど多くなかつたのではないか。当時は高等教育機関の数も少く、外交史を開講する学校は、明治から大正初期においては、せいぜい一〇校前後であつた。したがつて、書籍を購入してまで外交史を勉強しようとする人々の数も、それほど多くなかつた。さう考へると、この種の書物がさほど流通しなかつたとしても、なんら不思議ではない。

最後に、当時出版された書物の、学問的な水準について考へてみたい。筆者はこの分野を専門としないため断言はできないが、日本外交史や東洋外交史に較べて、欧洲外交史の研究書の水準は高く、当時「本場」とされたフランスにおける研究にも、遅れをとつてゐないやうに見受けられる。

これに比して日本外交史は、史料公開の遅れなどにより、水準としては厳しいやうである。まして巽の『日清戦役外交史』のやうに、機密の漏洩を咎められる事件も起つてゐる。そのため、日本外交史の研究者は、新しい事実を発見したとしても、これを著作に反映できない場合も多かつたと思はれる。

東洋外交史(中国外交史)は、日本外交史よりもさらに状況は厳しかつた。当局による史料の公開は日本以上に遅れてをり、清朝末期から中華民国初期の現地の情勢は、原史料の入手や関係者への取材をさらに困難にした。この分野において一次史料に依拠した本格的な研究は、ほぼ絶望的だつたのではないか。

もちろん、書籍に関するこれらの特徴は、大正初期より前のものであり、より多くの大学で外交史が講じられるやうになり、専門研究者の数も増加した大正中期以降において、事情が変化した可能性は大きい。本論ではそこまで触れることはできなかつたが、それらの解明は今後の課題としたい。

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2.論文の目次

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正誤表・補足情報

著書『近代日本の外交論壇と外交史学』のページをご覧ください。

入手・閲覧方法

著書『近代日本の外交論壇と外交史学』のページをご覧ください。

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索引データ

著書『近代日本の外交論壇と外交史学』のページをご覧ください。

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全文データ

著書『近代日本の外交論壇と外交史学』のページをご覧ください。

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参考文献リスト

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